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ごまの歴史

メーカーへの道

昭和40年代、高度経済成長とともに、スーパーマーケットがたくさんできました。 忙しくなったのは、オニザキなどの卸売業者。スーパーマーケットでは、ゴマのはかり売りなど不可能。 小袋入りの製品としなければ売れません。「洗いごま」、「いりごま」など、現在と変らない形態の「製品」が一気に流通するようになりました。
昭和43年のこと。お母さんの忙しさを見てきた息子は18歳。 「商売はしたくない」と思うものの、とてもお母さん一人ではさばけない注文が入ってくるようになって、 手伝わざるを得ません。晴れの日はゴマを洗い、お天気の悪い日と夜は、煎ったりすったり。親子2人で夜中まで仕事に追われました。

イラスト1

 ある日のこと、1枚のパンフレットを目にしました。それは、ミキサーの広告です。息子は機械化を思いつきます。 電話帳で機械メーカーを片っ端から調べ電話しました。一軒一軒に作業内容を説明し、機械化した い旨を伝えました。 ゴマを作る機械などどこにもありませんでしたから、考えを伝えるのも一苦労でした。

やっと、あるメーカーが「それならできそうです」と言ってくれました。表は土砂降りですが、息子はいても立ってもいられず、 「今から行きます」と電話を切りました。まだ見ぬ「すりごま製造機」を頭に描き、車に飛び乗ったのが、昭和46年でした。3ヵ月後、 ゴマを加工する機械が納品されました。大きな釜にハンドルをつけたようなヘンテコな機械でした。
これで楽になる、と親子で喜びましたが、この機械は思うように働いてくれませんでした。均等に熱が伝わらなかったり、かき混ぜにムラができたりと、 使い物にならなかったのです。その頃は、近所の人たちも手伝いにきてくれていましたが、夜中の1時、2時まで働く毎日が続い ていました。 そして、息子はどうしても、機械化を諦めることができず、模索を続けることになります。

「自分で機械を改良してみよう」息子はそう思いました。もともと整備士になりたかったのですから、 機械いじりは好きだったのです。 しかし、これは、長い道のりでした。